〔 日枝神社 〕 ( ※ 句読点加筆、算用数字使用 )
〔 やまねの坂( 山王坂 )〕 昔は、やまねの坂と呼ばれていましたが、戦後改修され山王坂とも呼ばれるようになりました。
〔 延命地蔵 〕 本地蔵尊の起縁は鎌倉時代にさかのぼるといわれています。新生児の生命を守るなどの諸願をかなえてくれるとのことで信仰を集めています。
〔 忠生遺跡B地区(町田市根岸町)〕 この遺跡は忠生区画整理事業に伴い発掘調査された忠生遺跡群(A〜D地区)の1つで、境川を見下ろす高台にあり、旧石器時代、縄文時代の集落跡、古墳時代、室町時代の集合墓地跡が発掘されました。中心は縄文時代中期の集落跡で、主に1990〜91年に発掘され、竪穴住居跡48軒、堀立柱建物跡4軒、土坑、集石などからなる外径約100mの典型的な環状集落跡であることがわかり、数多くの土器、石器類をはじめ土偶や大珠(だいしゅ)、石棒なども出土しました。同時期の環状集落跡は、川上では相模原市山王平遺跡、川下では忠生遺跡A地区(木曽町)があり、これらの集落とも関係があったと思われます。なお、この説明板後方の下には約4500年前の竪穴住居跡1軒が保存されています。2006年9月 町田市教育委員会
〔 箭幹(やがら)八幡宮随身門(ずいじんもん)〕 町田市指定有形文化財
〔 箭幹八幡宮由緒 〕 祭神 応神天皇 配祀 神功皇后/例大祭 9月15日
〔 六面地蔵尊 〕 左 :正面から向かって左側のお地蔵さん
〔 尾根緑道の由来 〕 この「尾根緑道」は以前は「戦車道路」と呼ばれていました。それはこの道が第二次世界大戦の末期、ここから南西約1.2キロにあった相模陸軍造兵廠(しょう)で製造された戦車の走行テスト用道路として造られたものだからです。戦後しばらくの間、防衛庁が同様な目的でここを使用していましたが、今は町田市が国から借り受けています。それ以降町田市では、富士山や丹沢の山々を一望できるこの全長8キロにおよぶ景観の地を市民のみなさまが四季折々楽しむことができるよう整備を進めてきました。そして、今では、春は桜、秋には紅葉と、市民のみなさまに散策やハイキングなどに大いに利用され、さくら祭りの会場ともなっています。このようにこの地はかつての「戦車道路」という「戦争の遺物」から、現在は市民の憩いの場、すなわち「平和の象徴」へと大きく生まれかわりました。1993年2月 非核平和宣言都市 町田市
〔 幻の花・カタオカザクラ(片丘桜)〕 この「カタオカザクラ」は、昭和20年5月に長野県塩尻市片丘(かたおか)の山林で発見されたものです。その後、片丘の自生地が山火事に遭い焼失し、幻の桜となりました。東大理学部付属植物園日光分園に移植されていた一本の木から、片丘ザクラ保存会の皆様の永年におよぶ努力により、百数十本がふる里の地に蘇りました。この貴重な「カタオカザクラ」は町田市と桜でつなぐ友好のために、塩尻市より寄贈されたものです。
〔 鶴見川流域 最高度三角点 「山王塚(さんのうづか)」〕 この山王塚跡(あと)には、鶴見川流域最高度三角点「山王塚」(168m)があります。鶴見川は、流域面積235平方kmで、多摩丘陵から下末吉(しもすえよし)台地を刻み、横浜市鶴見区から東京湾に注ぎます。鶴見川の源流は、ここから南に0.6km下った町田市上小山田の「鶴見川源流の泉」です。
〔 鎌倉時代の蓮生寺(れんしょうじ)と鎌倉道(かまくらみち) 〕
〔 奥州古道と六部塚(ろくぶづか)〜民話の塚と石塔 〕 江戸時代のこと、旅の尼僧が抱く赤子に地元の人が乳を与えましたが礼を言って立ち去った尼僧は力尽きて倒れ峠に葬られました。後日訪れた身内の信州伊那郡(いなぐん)の片桐勘四郎(かたぎりかんしろう)(旅の六十六部)もここで力尽き葬られ、二つの塚を築いた村人は農作業の合間に通っては手を合わせていたそうです。近年この六部塚(六十六部の略)は案内板から南へ80m下った所で見つかり、小山田の田中谷戸集会場では石塔が発見され、民話が本当だったことがわかりました。
〔 京と東北を結んだ奥州古道と影取池(かげとりいけ)伝説 〕 多摩よこやまの道に平行して残る山道は、かつて京都と東北地方(奥州)を結んだ奥州古道の痕跡です(奥州古道常盤(ときわ)ルート。国府街道とも)。京都や奈良から関東諸国の国司として赴任してきた有力貴族や郡の警護にあたる衛士(えじ)の往来、また防人(さきもり)の帰郷の道ともなりました。また江戸時代には巡礼の道(武相観音霊場道(ぶそうかんのんれいじょうみち)、東西両国巡礼道)として賑わいました。 * 横面に影取池伝説の案内があります。
〔 棚原(たなはら)の館跡(やかたあと)〕 ここから左側(東側)に見える操車場付近にはかつて小高い丘がありました。江戸時代の地誌には戦国時代に八王子城で討ち死にした島崎二郎某(しまざきじろうぼう)の館跡があって鎮守の森や馬場跡もあったと記されています。島崎氏の先祖は鹿島神宮や香取神宮に近い常陸国(ひたちのくに)(茨城県)行方郡(なめかたぐん)の島崎城付近から来たとも伝えられますが詳細は不明です。江戸時代の初め(寛永年間)には加右エ門屋敷(かえもんやしき)もあったと伝えられています。