1 〔 桜土手(さくらどて)古墳公園 〕 秦野市堀山下 2014.8.15     散策行 へもどる
クリックすると拡大します ★ 画像クリック拡大表示
(左の画像は「1号墳 復原モデル」)

〔 周溝(しゅうこう)と葺石(ふきいし)〕
( 32号墳 案内板より )
古墳の周りにめぐっている周溝は、古墳の立派な様子を強調するとともに古墳の境界を示しています。葺石は、古墳の斜面に石を敷き並べたもので、古墳を飾るとともに、盛った土が流れるのを防ぐ役目もしています。

〔 副葬品(ふくそうひん)〕( 31号墳 案内板より )
埋葬の時に遺体といっしょに納められる品を副葬品といいます。副葬品には、装身具・武器・馬具(ばぐ)・土器など、その種類は多く、一つの時代の技術の水準を知るには最も有効な資料ということができるでしょう。

impress.js( GitHub ) [ script ]

《スクリプト仕様》
★ 手動操作。
★ キーボードの「 ← または ↑( prev )/ → または ↓( next )」で操作して下さい。


〔 2/43 〕 小田急・小田原線「渋沢」駅 北口


〔 3/43 〕 歩道橋デッキから富士山を望む


〔 4/43 〕 古墳公園を通過して堀戸大橋(ほりとおおはし)へ


〔 5/43 〕 橋の前方。「工業団地入口」方面。


〔 6/43 〕 水無川(みずなしがわ)


〔 7/43 〕 「秦野市立 桜土手古墳公園」入口


〔 8/43 〕 「保存古墳 29号墳」

9 【 29号墳 案内板 】    ★画像クリック拡大表示
クリックすると拡大します 〔 保存古墳 29号墳 〕
径15.6m・高さ1.4mの円墳で、その周りを幅約1.6mの周溝(しゅうこう)がめぐっています。周溝調査の時、葺石(ふきいし)の一部と思われるものが発見されました。
(左の画像は案内板の写真)

クリックすると拡大します 〔 桜土手古墳群 分布位置図 〕
(左の画像は案内板のイラスト)


〔 10/43 〕 「保存古墳 28号墳」


〔 11/43 〕 「保存古墳 26号墳」


〔 12/43 〕 30号墳と古墳展示館


〔 13/43 〕 「復原古墳」

14 【 復原古墳 】    ★画像クリック拡大表示
クリックすると拡大します 〔 復原古墳 〕
この古墳は、昭和49年(1974)に発掘調査した1号墳を、図面や写真をもとに復原したものです。径28cm・高さ5.6mで、幅約5mの周溝(しゅうこう)をめぐらしており、桜土手古墳群の中で一番大きなものでした。1号墳は、桜土手古墳群の一番南に、他の古墳とは少し離れて造られていました。
〔 古墳の復原 〕
古墳公園では、造られた当時の古墳の姿や古墳の構造を見ていただくために、桜土手1号墳をモデルにして、古墳を復原してみました。復原に使用した石は、桜土手古墳に使われていた石です。復原には、大型の機械などを使いましたが、機械のない時代の古墳の造営は、大変だったことでしょう。

クリックすると拡大します 〔 横穴式石室 〕
古墳で最も重要な、遺体を入れる場所です。入口は石を積んで塞(ふさ)がれますが、それを開けることによって、何度も追葬(ついそう)することができます。1号墳石室の石積みは、上にいくに従って少々狭くなり、その上に天井石を8個乗せています。その上を小石や粘土でおおい、石室内に雨水が入らないようにしています。石室からは、壺(つぼ)などの須恵器(すえき)や勾玉(まがたま)などの玉類、その他鉄製品などが出土しました。

クリックすると拡大します 〔 桜土手1号墳 墳丘のようす 〕
1号墳は墳丘の中程に平らな面のある二段構造です。遠くから見るとお供え餅のような形をしています。そして斜面には、葺石(ふきいし)といって河原石(かわらいし)が葺かれていました。古墳時代の人が見た古墳は、このような形だったのでしょう。1号墳の墳丘上から大きな須恵器(すえき)が発見されています。これには叩き割ったと思われる跡があり、埋葬儀式の時何らかの理由で、割ったものではないかと思われます。
〔 桜土手1号墳 墳丘内部のようす 〕
石室に積んだ石をしっかり固定するために、石と土の間に砂利などを詰め込みます。これを裏込(うらご)めと呼びます。
[ 石垣状の石組 ] 1号墳の墳丘の中には、石室を取り巻くように石垣状の石組(いしぐ)みがありました。この石垣はとても立派に造られていますが、古墳が完成した時には墳丘の中に隠れてしまい、見ることができません。同じものが7号墳にもありますが、これは他の地域の古墳には見られない特異な構造です。


〔 15/43 〕 復原古墳を時計回りに一周する


〔 16/43 〕 「保存古墳 32号墳」


〔 17/43 〕 「モニュメント広場」


〔 18/43 〕 「前田夕暮生誕130年記念」の石碑

19 【 前田夕暮生誕130年記念 】    ★画像クリック拡大表示
クリックすると拡大します クリックすると拡大します
 いま、つきをへた 鐘が霧の なかで揺れて ゐる、 空すこし あをい    夕暮
《 解説 》
 夕暮の口語自由律時代後期の作で昭和15年2月58歳、「詩歌」同人たちと弘法山に遊んだ感興を歌っている。少年時代遊び場にしていた弘法山の頂から鳴り響いた鐘の音は望郷の想いをかき立てたに違いない。早春の空へ溶け入ってゆく鐘の音に聴き入りつつ短歌の将来を考えて佇つ姿が見えるようだ。
 出展    『烈風』昭和18年刊(歌の形に小異あり)
 建立年月日 平成25年3月吉日
 建立者   秦野ロータリークラブ
 揮毫    前田夕暮
 解説    村岡嘉子


〔 20/43 〕 「保存古墳 31号墳」


〔 21/43 〕 「記念碑 秦野市長 柏木幹雄書」


〔 22/43 〕 「秦野市立 桜土手古墳 展示館」

23 【 秦野市立 桜土手古墳展示館 】    ★画像クリック拡大表示
展示館 甕(かめ) 記念スタンプ
1. 展示館入口2. 甕 かめ(1号墳)3. 記念スタンプ
〔 桜土手古墳群(さくらどて こふんぐん)〕
 古墳時代の後期になると、古墳を造る階層が拡がり、特に大陸の墓制(ぼせい)の影響をうけた横穴式石室(よこあなしき せきしつ)の古墳が、全国各地に造られるようになりました。桜土手古墳群もそのひとつで、7世紀〜8世紀頃のものと思われます。発掘調査の結果、全部で35基確認されました。装身具・武器をはじめ、土器などが副葬(ふくそう)されていました。一基の古墳から数体の骨が発見されたものもあり、家族墓(かぞくぼ)として用いられたと思われます。古代の人々が死後の世界をどう考え、なぜ古墳を造ったのか、皆さんも考えてみましょう。


〔 24/43 〕 「古式発火法に挑戦!」のコーナー。館内写真撮影可とのこと。


〔 25/43 〕 展示パネル


〔 26/43 〕 「甕(かめ)」の展示


〔 27/43 〕 「平瓶(ひらか)」などの展示


〔 28/43 〕 展示模型


〔 29/43 〕 映像室の様子


〔 30/43 〕 地階


〔 31/43 〕 「先土器時代〜縄文時代の遺跡」


〔 32/43 〕 「石鏃(せきぞく)」(縄文時代中・後・晩期)


〔 33/43 〕 「弥生時代〜鎌倉時代の遺跡」


〔 34/43 〕 「古墳時代(後期)・西大竹尾尻(にしおおたけおじり)遺跡群出土の土器」


〔 35/43 〕 「さわる展示コーナー」。以上、地階にて。


〔 36/43 〕 上段「学制当初の教科書」/下段「明治20年代の教科書」


〔 37/43 〕 「師範学校編 小学読本(明治7年刊)」


〔 38/43 〕 「修身書(明治26年刊)」


〔 39/43 〕 展示。1階入口にて。


〔 40/43 〕 館内入口付近の様子


〔 41/43 〕 展示館を出て

42 【 展示館前 】    ★画像クリック拡大表示
展示館前 展示館前の公園の様子
パノラマ 同上。パノラマ・モード(自動合成)。


〔 43/43 〕 公園中央の木