1. 鍛冶ヶ谷(かじがや)市民の森( 横浜市栄区 2014.5.6 ) ★ 画像クリック拡大表示   reveal.js   公園等へ

 JR根岸線「本郷台」駅から21号線(鎌倉街道)に入り、港南台駅方面に歩いてしばらくすると「鍛冶ヶ谷」バス停先、動物病院左手に開園を知らせる大きな白い横断幕が目に飛び込んでくる。案内板にも「4月1日『鍛冶ヶ谷市民の森』開園」と書いた用紙が張ってある。開園には「宮ノ前横穴墓群(みやのまえ よこあなぼぐん)」保存という意味合いが込められているようだ。7世紀頃の古代人の埋葬様式を垣間見ることができる。各区に散在する30数ヵ所の市民の森の中でも珍しいと思う。「愛護会」の方々の苦労や負担を思いつつ、森の保全・管理が円滑に進むよう願うばかりである。
「横穴墓(よこあなぼ)」の読み方:「明治時代からの『横穴墓』研究の中で、発掘された『横穴』が最終的には、『単に横方向につくられた穴』ではなく『お墓』であるという結論になった。穴居(けっきょ)論争当時の「横穴(おうけつ)」という読み方がそのまま用語として定着し『おうけつぼ』の読み方が残っているが、『よこあなぼ』の読み方がふさわしい」という記述がある。「横穴古墳(よこあなこふん)」同様、「よこあなぼ」と読んで同時にその遺構機能が「お墓」であることをイメージする用語としたい。

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〔 2/64 〕 JR根岸線「本郷台」駅前

〔 3/64 〕 本郷台駅バスターミナル

〔 4/64 〕 地球市民かながわプラザ(あーすぷらざ)

〔 5/64 〕 「東入口」・「東広場」にて

〔 6/64 〕 案内板

〔 7/64 〕 案内板の散策マップ。切り取り処理画像。

〔 8/64 〕 登りやすい階段

〔 9/64 〕 「眺望広場」

〔 10/64 〕 鎌倉街道の向こう側に「本郷ふじやま公園」の「旧小岩井家住宅」主屋が見える

〔 11/64 〕 宮ノ前横穴墓群(みやのまえ よこあなぼぐん)「D群・C群」地点

〔 12/64 〕 「横穴墓の状況」案内板

 13. 横穴墓の状況    ★ 画像クリック拡大表示

 左:棺室構造の有無によって色分けした分布図
 右:内部構造の図式化(平面図&立体図)

  〔 宮ノ前横穴墓群(みやのまえ よこあなぼぐん)〕
 昭和33〜34年にかけて調査された横穴墓群で、南面する2つの谷戸上部に展開するA・E群、B〜D群の5群25基の横穴墓が調査されました。(公開エリア内には24基)
 A群の東寄り4基(1〜4号墓)の横穴墓は棺室(かんしつ)構造を持つタイプの横穴墓で、これに対して西側の7基(5〜11号墓)は棺室構造を持たないタイプの横穴墓となっています。これらの横穴墓の中では、西側の9号墓や10号墓の構築年代が古く(7世紀第1四半期頃)、出土遺物や他地域との比較から、棺室構造を持たない横穴墓から持つ横穴墓へ移行したものと考えられています。同様に、東側のB〜D群についても、ほぼ中央に位置するC群の1号墓や大きい棺室構造をもつB群6号墓が造られてから、その他の横穴墓が造られたと考えられています。
 宮ノ前横穴墓群のように非常に良好な状態で遺存している横穴墓群は市内でも稀(まれ)で、とても貴重な資料といえます。また、律令期にはこのいたち川(がわ)下流域に尺度郷(さかどごう)があったと考えられており、この横穴墓群に埋葬された人たちは、それ以前に当該地を治めていた地方豪族の一部の墓域であったのではないかと思われます。

  〔 横穴墓の形態 〕
 横穴墓の基本的な構造は、内部施設の玄室(げんしつ)・羨道(せんどう)と外部施設の墓前域(ぼぜんいき)からなっています。玄室とは、人の亡骸(なきがら)(棺)を安置する空間のことをいい、場合により前室(複室)を設けるものもあります。玄室底面は、岩盤を掘ったままのものがあるほか、礫床(れきしょう)と呼ばれる河原石を敷き詰めたものもあります。また、棺座と呼ばれる台のようなものや、排水溝などが設けられるものも存在します。
 玄室にはさまざまな形状がありますが、断面形状ではドーム形やアーチ形をとるもののほか、家形をしているものもみられます。また、内部施設を上から見た平面形状には羽子板(はごいた)形や徳利(とくり)形などがあり、時代が下がるとともに玄室と羨道の境が簡略・形骸化され、不明瞭になり上下が逆さまの台形状になっていく傾向があります。
 羨道とは外部と玄室とをつなぐ施設で、一般的に羨道の入り口部分、すなわち墓前域との境に河原石や土丹ブロックなどで閉塞を行います。墓前域とは墓の前方区域を縮めた名称で、このエリアから供献(きょうけん)遺物が見つかることから、この場所で死者を弔う墓前祭を行っていたことが考えられます。
 底面のレベルはおおむね玄室部分が最も高く、墓前域に向かって傾斜していますが、これは横穴墓内に湧出(ゆうしゅつ)する水を流すためと考えられます。

〔 14/64 〕 横穴墓

〔 15/64 〕 網目に設けられたカメラ穴。移動しながら撮影したのでどの群か不明。

〔 16/64 〕 横穴墓。

〔 17/64 〕 B群の横穴墓

〔 18/64 〕 横穴墓

〔 19/64 〕 同上

〔 20/64 〕 B群からA群・E群へ

〔 21/64 〕 A群・E群(西側方向)へは立入禁止

〔 22/64 〕 柵越しにA群を撮影

〔 23/64 〕 散策路谷側の竹林

〔 24/64 〕 尾根。「法面(のりめん)工事中で通り抜け不可。平成26年5月31日(土)より園路開放」の由。

〔 25/64 〕 分岐点。左はD群・C群の横穴墓群へ出る道。

〔 26/64 〕 「分岐点広場」

〔 27/64 〕 「横穴墓案内板」

〔 28/64 〕 横穴墓の分布図

 29. 横穴墓案内板    ★ 画像クリック拡大表示

左画像:栄区の古墳分布状況

 〔 横穴墓(よこあなぼ)とは 〕
横穴墓とは古墳時代後期の墓制(ぼせい)のひとつで、丘陵の山腹や崖面を掘削して構築される墓のことをいいます。おおむね複数の横穴墓が集まり、いくつかのかたまり(支群)を形成しています。2〜3基といった小規模な単位で構成される場合もありますが、多いものでは埼玉県東松山市の吉見百穴(よしみひゃっけつ)のように100基以上の横穴墓からなるものも認められます。このような状況から、横穴墓が造られている周辺地域を治めていた一族(地方豪族)の墓ではないかと考えられています。
 中世に似たような形状をもつ「やぐら」がありますが、横穴墓とやぐらとの連続性はなく、横穴墓は古墳時代独自の墓制であることがわかっています。また、形状が似ていることから、横穴墓をやぐらに転用している場合もあります。
 横浜市域の古墳の分布状況を見てみると、高塚古墳のみで構成される地域、横穴墓群と高塚古墳が混在している地域、横穴墓のみで構成される地域があることが分かっています。ちなみに栄区周辺では、横穴墓だけが認められる地域となっています。

 〔 地域の特色 〕
 宮ノ前横穴墓群の位置するいたち川流域では、玄室の奥壁に穴を穿(うが)ち奥に複室のような施設を設けるものが数多く見つかっています。そのほとんどが、玄室より規模が小さく、中には人が寝た状態では入れない狭いものもあります。このような施設は棺室と呼ばれるもので、文字通り棺や遺骸(いがい)を安置する施設のことをいいます。この棺室の入り口部分には、羨道(せんどう)と同じように板石などをはめこんで閉塞(へいそく)したと思われるような施設(くぼみ)が設けられています。
 宮ノ前横穴墓群の発掘調査を記録している発掘調査報告書では、棺室構造をもつ横穴墓のことを、遺跡の位置する地名をとって「鍛冶ヶ谷(かじがや)式」と呼んでいました。しかし、その後、分布範囲がいたち川流域のみではなく、さらに周辺域まで広がっていることが分かり、その範囲が旧鎌倉郡域と近似していることから、近年では「鎌倉型」と呼ばれています。

〔 30/64 〕 分岐点広場の様子

〔 31/64 〕 「北入口」へ

〔 32/64 〕 「北広場」

〔 33/64 〕 柵越えの見晴らしがいい

〔 34/64 〕 「本郷台」駅へ向かう根岸線の電車。トンネルへ入る。

〔 35/64 〕 「港南台」駅へ向かう電車

〔 36/64 〕 「北入口」にある「愛護会掲示板」と市民の森案内板

〔 37/64 〕 鎌倉街道を渡り「本郷ふじやま公園」へ向かう。右前方は「鍛冶ヶ谷市民の森」。

〔 38/64 〕 「古民家」への案内標示

〔 39/64 〕 「本郷ふじやま公園」入口

〔 40/64 〕 公園石標

〔 41/64 〕 「古民家」の鯉のぼり

〔 42/64 〕 「長屋門(表門)」

 43. 古民家(本郷ふじやま公園)    ★ 画像クリック拡大表示

左: 長屋門(表門)
右:「旧小岩井家住宅 横井戸」案内板

 〔 古民家ゾーンご案内 〕
 古民家ゾーンには、鍛冶ヶ谷村の名主を務めた「小岩井家」から寄贈を受け、移築復原された主屋、長屋門の他、各種教室などを行う工作棟があります。江戸時代の名主の屋敷の雰囲気を今に残す主屋内は、見学いただけます。
 旧小岩井家住宅主屋及び長屋門は、江戸時代末期に建てられたものです。主屋は、式台をつけた座敷が設けられるなど一般の農家に見られない格式ある造りをもっており、長屋門とあわせて、創設当時の姿に復原されています。この建物は、平成14年11月に、主屋、長屋門(表門)ともに市指定有形文化財に指定されました。

 〔 旧小岩井家住宅 横井戸 〕
 旧小岩井家の屋敷地は、このふじやま丘陵の北西の裾(すそ)を切断して平坦地を造っており、飲料水はその切断された断層(土丹(どたん)粘土層)に横井戸を掘って使っていました。
 開口1.4m、高さ1.6m程度の横井戸は、5mほど入ったところで二股(ふたまた)に分かれ、現在は反対側を埋め戻したため確認できませんが、かつては北東250m程に位置する八幡神社(本郷ふじやま公園西隣)までつづいていたといわれています。
 横井戸の水は、ふじやまの地層で自然濾過(ろか)された雨水が天井面からしたたり落ちたもので、この水を横穴の二股に分かれた各々の入口に設けた高さ60cm位の堰板(せきいた)で一度貯水しています。そして、堰板からあふれた水を、側溝(水道(みずみち))に流し、横井戸入口脇の堀込み式の水溜(みずため)に溜めます。この水溜から水をくんだり、野菜を洗ったり、生活用水として使用していました。現在は、飲料水として使用されていませんが、かつてここを訪れた鎌倉圓覚寺住職が名水とたたえたという和歌が残されているほどおいしい水でした。
 横井戸内部は、湿度の変化が少なく食料保管に適しているため、室(むろ)(貯蔵庫)としても使用され、貯蔵場は堰板手前で地盤を1段上げていました。
 ふじやま周辺のほとんどの民家は、かつて横井戸を有しており、横井戸が生活用水の供給並びに食料貯蔵の場として、生活と密接に関連していたことが分かります。

〔 44/64 〕 「横浜市指定有形文化財 旧小岩井家住宅 主屋並びに表門」の石標

〔 45/64 〕 「主屋」。「端午の節句 武者人形展示中」。

〔 46/64 〕 「主屋」。撮影禁止場所がないことを確認する。

〔 47/64 〕 「長屋門」。左(東側)は板敷きの穀物入れ。右(西側)が土間の「納屋」。

〔 48/64 〕 「納屋」。「農具などを入れていた」とのこと。

〔 49/64 〕 唐箕(とうみ)。玄米などから籾殻等の異物を風で吹き飛ばし選別する農機具。穀物入れの左側。

〔 50/64 〕 セイヨウジュウニヒトエ(西洋十二単)・シソ科

〔 51/64 〕 同上

〔 52/64 〕 「味噌倉」。「日常の味噌醤油などの置き場」。主屋の中。

〔 53/64 〕 大釜・中釜・小釜の三連のかまど

〔 54/64 〕 五月人形

〔 55/64 〕 同上

〔 56/64 〕 同上

〔 57/64 〕 同上

〔 58/64 〕 展示の様子

〔 59/64 〕 蔵

〔 60/64 〕 主屋裏側

〔 61/64 〕 「式台」。「身分の高い人が使用する公式の出入口で、一般の農家にはない」とのこと。

〔 62/64 〕 主屋の左側

〔 63/64 〕 鯉のぼり

〔 64/64 〕 JR根岸線「港南台」駅前