1. 小石川後楽園 東京都文京区 2014.5.2 ★画像クリック拡大表示 reveal.js [script] 公園等 へもどる
左手築地塀の石垣の一部(プレート設置箇所)は、江戸城鍛冶橋(かじばし)門北側外堀趾(千代田区丸の内一丁目)から出土した石垣の石材を使い、本園の作られた江戸時代初期(17世紀初頭)の「打ち込みハギ」と呼ばれる石積の技法で再現しました。 石材には、備中(びっちゅう)(岡山県)成羽(なりわ)藩主山崎家の をはじめ石垣を築いた大名を表す「刻印」や石割の際の「矢穴」が残っています。数字は発掘調査で出土したとき付けた番号です。 (2)〔 特別史跡 特別名勝 小石川後楽園 〕 位置:文京区後楽1丁目6の6/面積:70847M2/開園:昭和13年4月3日 小石川後楽園は旧水戸徳川家の江戸上屋敷の後園で、林泉美に富む廻遊式築山、山水庭園である。 江戸時代初め、徳川御三家の一つであった水戸家の祖、徳川頼房は寛永6年(1629年)三代将軍家光から与えられたこの邸地に廻遊式庭園を築造した。二代目藩主光圀も本園の築庭には力を注ぎ、当時隣国明の遺臣で我が国に亡命していた朱舜水(しゅしゅんすい)の意見を用い、今見る様な中国趣味豊かな手法を加味した。 因みに後楽園の名は、光圀が舜水に命じて選んだもので、宋の范文正の「岳陽楼記(がくようろうき)」中 ≪ 先天下之憂而憂、後天下之楽而楽(天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみにおくれて楽しむ ≫ からとったものである。その後も、たびたびの改修や震火災で創築時代の壮観さこそ失われたものの、逐次手が加えられるなど幾多の時代の変遷を経て現在に至っている。 本園は、土の香ただよう奥深い山地と樹木に包まれた静寂な水面の中に各地の名所を写し、自然の美と人工の妙とを兼ねそなえた庭園芸術の粋を見せている。また、園内は数々の園亭祠堂があり、梅、桜、藤、花菖蒲など四季折々の花が豊富で都会では貴重な緑として、訪れるものに憩いの場を提供している。 なお本園は、大正12年3月、国の史跡名勝に、また、昭和27年3月、文化財保護法により、特別史跡及び特別名勝に指定された。 (5)〔 涵徳亭(かんとくてい)〕 本園創築時代に造られた萱葺(かやぶき)の茶室で硝子紙をもって障子としたため「硝子(ビードロ)ノ茶屋」と呼ばれていたのを、享保年間に林信篤(はやしのぶあつ)が涵徳亭と名づけた。現在の建物は四代目で昭和61年に再建した。 《 スクリプト仕様 》★ オート・プレイの設定(手動操作で見て下さい)。キーボードの〈 ← ・ → 〉で矢印ボタンの操作可。 |
18. 跡地&塚 ★画像クリック拡大表示
京都清水寺を写した観音堂があったが、大正12年の関東大震災で焼失した。 二代光圀七歳のとき、将軍家光に謁見したおり、「文昌星(ぶんしょうせい)」像を頂戴した。後に光圀は文学を好むようになり、文昌星を思い起こし八卦堂を造りその像を安置したという。なおこの堂は大正12年の関東大震災で焼失した。 塚石が常陸(ひたち)の小野の産地であることから、光圀が戯れて小町塚と呼んだといわれる。
昼なお暗い木曽の山道を過ぎて渓流を渡りここに至ると、僅(わず)かに白雲の行き交うのが見えたという高台。遠くは妙義・榛名の山々、近くは赤城・築土(つくど)の社を望むことができた。 藩祖頼房(よりふさ)の時代に、御鞍打師「小野荘兵衛」作の西行法師の木造を安置したことから西行堂と名づけられた。ここにある西行の歌碑は、九代斉昭(なりあき)の「駐歩泉」の碑にちなみ同夫人が建てたものである。なおこの堂は戦災により焼失した。 |
21. 通天橋(つうてんきょう)付近 ★画像クリック拡大表示
京都・清水の「音羽の滝」にならって名づけられた。もとは萱門外の水車により神田上水の水を汲み上げ樋により小廬山の側に流していたが、元禄の地震のとき水流が破壊され岩組だけが残された。 京都・東山東福寺の「通天橋」にならい、大堰川の渓流に朱塗りの虹橋をかけたもので、この付近の楓の紅葉は趣が深いところである。 (5) 「水戸光圀ゆかりの得仁堂と木像『伯夷(はくい)・叔齊(しゅくせい)』」の解説パネル 小石川後楽園の造営を完成させた水戸二代藩主徳川光圀(1628〜1700)は、得仁堂を創設し、泰伯(たいはく)・伯夷・叔齊像を安置しました。光圀が堂をつくり三像を祀ったことには、その徳を慕い、手本としていた光圀の強い思いが示されています。三像のうち伯夷・叔齊像は現存しています。 「伯夷・叔齊」とは、中国古代・殷(いん)代の小国の王子兄弟の名前です。二人は跡継ぎになることを互いに譲り合い、国を去ったといわれています。これに対し国民は、「聖の清なるもの」と誉め称えました。兄弟は善政を行っていると評判の文王(ぶんおう)を慕い周の国へ行きましたが、時の王は亡くなり、子の武王(ぶおう)が継いでいました。武王が父の葬儀も済まないうちに殷の君主を征伐しようとすることを知り、父子の道、君臣の道に背くと諫めたが聞き入れられませんでした。そこで二人は、「周に仕えて俸禄を受けるのは恥」として山にこもり、ワラビで命をつないでいましたが、ついに餓死したといわれています。 光圀は、6歳の時に兄をさしおいて世継ぎと定められ、苦しみ続けた自らの身の上と重ね、18歳で「伯夷・叔齊」の物語を読み非常に感銘を受けました。光圀は「仁を行い得た人たち」を祀る得仁堂を建立し、伯夷・叔齊の木像を納め参詣したと言われています。 |
26. 白糸の滝(しらいとのたき) ★画像クリック拡大表示
六代治保(はるもり)のときに造られた。その様子が千条の白糸を垂れているように見えるのでこの名がつけられた。 東京都により白糸の滝を部分的に解体しながら調査が行われています。 今後、遺構調査等の結果を踏まえ方針を検討し、再度遺構調査を実施した後、修復工事を行います。 お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、ご理解、ご協力の程、よろしくお願いいまします。 東京都東部公園緑地事務所工事課 小石川後楽園サービスセンター |
29. 「松原(まつばら)」付近 ★画像クリック拡大表示
江戸時代の風流な酒亭の様子を現した。この名の由来は「酒を飲むに昼は九分夜は八分にすべし」と酒飲みならず万事控えるを良しとする、との教訓による。戦災により焼失したが昭和34年に復元した。 〔 松原 〕 往時は松うっそうとして空もみえざりしと伝えられる。光圀最も珍重せる所にして将軍来園の際にも「これ天下の威光をもっても能わず」と感賞せられたる由なり。 |
31. 円月橋(えんげつきょう) ★画像クリック拡大表示
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34. 「花菖蒲田(はなしょうぶだ)」付近 ★画像クリック拡大表示
光圀が、農民の苦労を彼の嗣子(しし)・綱條(つなえだ)の夫人に教えようと作った田圃(たんぼ)。現在は地元文京区内の小学生が、5月に田植え、9月に稲刈りを行い、伝統行事を守り継いでいます。(パンフレットより) 京都愛宕山の坂にならって造られたもので、四十七段の石段からなっている。 |
38. 石碑&遺蹟 ★画像クリック拡大表示
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44. 錦春(きんはる)稲荷大明神(「赤門」よこ) ★画像クリック拡大表示
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46. 灯籠 ★画像クリック拡大表示
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48. 内庭(うちにわ) ★画像クリック拡大表示
〔 内庭 〕 |
57. 「蓬莱島(ほうらいじま)」周辺 ★画像クリック拡大表示
島は亀の形をしており、先端の大きな鏡石は庭師徳大寺佐兵衛にちなんで「徳大寺石」と名づけられ、弁財天を祀った祠がある。
(7)鏡石:表面が滑らかでつやがあり、ものの影がよく映る石(「コトバンク」)。 (8)延段(のべだん):「中国風の素朴な石だたみで、切石と玉石を巧みに組み合わせたものである」。 |