〔 浜離宮恩賜庭園(中央区) 2014.4.10 〕 AnythingSlider [script] 公園等へ ※ 手動操作で見て下さい。《 Start 》でオート開始。オートで画像 mouse−on:一時停止。手動で停止。 |
4. 中の御門(なかのごもん) ★ 画像クリック拡大表示
〔 浜離宮恩賜庭園 〕 沿革
(1) 前方は首都高速 (2) 売札所にて (3) パンフレット (4) 記念スタンプ
寛永の頃までは将軍鷹狩りの場所であったが、承応3年(1654)甲府宰相綱重が埋め立て別邸とし、甲府浜屋敷(海手屋敷)と呼ばれていた。その後、綱重の子 家宣が6代将軍となったため公収され名も浜御殿と改められ、将軍家の慰安場、社交場として大いに利用された。
維新後 宮内省所管となり、園地を整備し皇室宴遊の地にあてられ名は、浜離宮と改められた。明治2年落成した延遼館は、洋風石造建築で鹿鳴館とともに世上にしられ、迎賓館にあてられるなど由緒ある建物であったが、明治22年に取りこわされた。
昭和20年11月3日東京都に下賜され、一般に開放された。江戸時代に発達した大名庭園の代表的なもので、現存する潮入りの庭として貴重なものである。昭和27年、庭園全体が、国から重要文化財として特別名勝及び特別史跡の指定をうけている。
東京都 ( 園内案内板より )
10. 新銭座鴨場(しんせんざかもば)& 庚申堂鴨場(こうしんどうかもば) ★ 画像クリック拡大表示
〔 新銭座鴨場 〕
〔 新銭座鴨場 〕:「鴨場」とは古くから大名の別荘地などに設けられていた野生の鴨などの水鳥を遊猟するための場所のことです。現在、鴨場が見られるのは全国で5箇所しかないとのことですが、そのうちの1箇所が浜離宮恩賜庭園の鴨場です。
(1) 左:叉手網(さであみ)の
展示/右:解説板(下記参照)(2) 小覗と板木/竹筒は餌撒き (3) 大覗 (4) 元溜の池(大覗の奥)
鴨場は、飛来した水鳥が休むための島を配置した「元溜(もとだま)り」と呼ぶ大きな池と幾筋かの引き込み水路「引堀(ひきぼり)」からなっています。池には、獲物の水鳥たちを引堀へ導き入れてくれるよう訓練された囮(おとり)の家鴨(あひる)を放しておきます。周囲は約3メートルほどの高さの土手で囲み、笹や竹、常緑樹などを隙間なく植えて、人の気配を感じさせないようにし、飛来した水鳥が安心して休息できる環境を作ります。元溜りを見渡せる監視所の「大覗(おおのぞき)」から水鳥の集まり具合や風向きなどを確認し、猟を行う引堀を決めます。引堀の奥の見張りが隠れる「小覗(このぞき)」から、板木をたたきながらヒエやアワなどの餌を撒き、囮で引き寄せられた水鳥を、引堀の小土手から網や鷹を使って捕る猟を行っていました。
ここ「新銭座鴨場」は、寛政3年(1791)に築造され、その後幾度かの改修を経て現在の形になっています。「新銭座鴨場」の名称は、この鴨場の西南側の地名が新銭座町であったことに由来します。
〔 庚申堂鴨場 〕
〔 庚申堂鴨場 〕:《 上略 〜 上記「新銭座鴨場」参照 》
(5) 小覗 (6) 小覗と板木/竹筒は餌撒き (7) 猟の仕方と鷹狩りの方法 (8) 引堀
ここ「庚申堂鴨場」は、安永7年(1778)に築造され、その後幾度かの改修を経て現在の形になっています。庚申堂鴨場の名称は、この鴨場の北東側に庚申堂があったことに由来します。
17. 中島の御茶屋(なかじまのおちゃや) ★ 画像クリック拡大表示
(4) 「潮入(しおいり)の池」
パノラマ写真 { (1) 左 (2) 中 (3) 右 } (4) 「潮入の池」解説板
海水を取り入れて、潮の干満により水位を上下させ、庭園の趣に変化を生ずるように作られている池のことを「潮入の池」といいます。この庭園は、約28.000m2(8,500坪)の大泉水を中心として作られており、潮入の池を持つ代表的な大名庭園です。池には、ボラ、セイゴ、ハゼ、ウナギ、カニなどが生息しており、秋・冬には、多くの鴨類やユリカモメなどが飛来します。
(9) 「御来園の皆様へお知らせ」
(5) ベランダ側 (6) 赤は座席クロスの色 (7) 茶屋入口 (8) 「燕の御茶屋」復元中 (9) お知らせ
浜離宮庭園内におきまして燕(つばめ)の御茶屋の復元工事を行っています。完成は平成27年3月下旬を予定しております。皆様にはご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、ご理解とご協力をお願い致します。
工事件名:旧浜離宮庭園 燕の御茶屋 復元整備工事
工事場所:東京都中央区浜離宮庭園地内
工事概要:木造平屋建て こけら葺き屋根
建築面積 65.39m2
延床面積 62.19m2(18.8坪)
工事期間:平成25年12月上旬〜平成27年3月下旬
お気づきの点は下記までご連絡ください。
東京都東部公園緑地事務所 工事課/株式会社 水澤工務店 工事部
未来をつくろう、みち・水・緑 東京都建設局
59. 旧稲生(いなぶ)神社 ★ 画像クリック拡大表示
61. ボタン園 ★ 画像クリック拡大表示
(3) 〔 浜御殿の籾倉(もみぐら)〕
(1) ボタン園 (2) 休憩所 (3) 籾倉の解説板 (4) 広場
この地域は「内堀」と呼ばれる堀を引きこみ、築地川から水門を通って構内に深く入りこんでいる。これは、浜御殿に必要な物資はもちろん、遠く京・大阪あるいは長崎から運ばれてきた物資を、江戸城に入れるための港湾施設であった。堀には荷揚げ場の石段が設けられている。
天明7年(1787)から天保8年(1837)まで、50年にわたる11代将軍家斉の時代は、浜御殿が最も整備され、修治された時代であり、華々しい催しの続いた時代であった。燕の茶屋をはじめ、多くの建物が家斉によって作られた。また松平定信の進言によってこの地区に籾倉が建てられた。これは、天明年間の打ち続く天災と飢餓によって社会不安が高まる中で、寛政元年(1789)諸大名に飢餓に備えて籾の備蓄を命じ、寛政4年と7年に2棟ずつ幕府自ら、「三十五間蔵」と呼ばれる籾倉を救荒用倉庫として建てたものである。
69. 内堀(うちぼり) ★ 画像クリック拡大表示
73. 大手門 ★ 画像クリック拡大表示
(2) 「旧浜離宮庭園」《沿革》
(1) 内側から (2) 「沿革」 (3) 外から
この地はもと将軍家鷹狩りの場所であったが、承応年間 松平綱重の別邸となり、甲府浜屋敷または海手屋敷といわれた。ついで六代将軍 徳川家宣これを改めて浜御殿と改称し、大いに改修を行い景観を整えた園内には、茶園、火薬所、 織殿(「おりどの」の読み方だろうか)等が営まれ幕末には、石造洋館、延遼館の建設をみた。維新後、宮内省所管となり、園地を復旧し、皇室宴遊の地にあてられ、名も浜離宮と改められた。諸外国貴賓来訪の際には、延遼館はその迎賓館にあてられ、明治天皇も賜宴のためしばしば本園に行幸せられ、特に明治12年、米国前大統領グラント将軍が、わが国を訪問せられた際には親しく本園中の島茶屋において引見せられた。園は江戸時代に発達した大名庭園の代表的なものであって、現存する汐入の庭の典型的なものとして貴重な文化財である。 昭和23年12月 文部省
(4) 大手門橋 (5) 築地川 (6) 「特別名勝及び特別史跡
旧浜離宮庭園入口」の石標