8. 「名勝・史跡 向島百花園」 ★ 画像クリック拡大表示
〔 向島百花園の沿革 〕
本園は、江戸時代文化2年(1805)頃、佐原鞠塢(さはらきくう)という粋人が、向島の寺島村で元旗本、多賀氏の屋敷跡約3000坪を購入し、当時鞠塢と親交の深かった一流の文人墨客の協力を得、梅を多く植えたことから、「新梅屋敷」として創設したのが始まりとされています。
往時は、江戸中に百花園の名が知れ渡り、多くの庶民の行楽地として賑わいました。なかでも、弘化2年には、十二代将軍家慶(いえよし)の梅見の御成りがあり、明治になると皇室関係をはじめ、多くの著名人が来遊した記録が残っています。
その後、時代の変遷と共に、小倉家に所有権が移り昭和8年2月、国の「名勝」に指定され、時至って小倉氏の遺志(名勝永久保存のため)により、昭和13年10月に東京市に寄付されました。百花園を受領した東京市は、衰退著しかった庭園を復旧し、昭和14年7月8日制限公開にしています。
この後、戦災で石碑以外は全て焼失しましたが、多くの方々の努力のもと同24年に再び復元。その後、荒廃を余儀なくされましたが、初代鞠塢の「群芳暦(ぐんぽうれき)」を基本に植栽し、同53年10月文化財保護法により「名勝及史跡」の指定を受け、今日に至っています。
この庭園の特徴は、芭蕉の句碑をはじめ20数基の石碑と園全体の雰囲気が、江戸文人趣味豊かに作庭され、大名庭園とは趣を異にした草庭にあります。また、初代鞠塢の頃から「詩経」や「万葉集」に因む歴史的草花を植栽し、春や秋の七草をはじめ、四季それぞれの植物が植え込まれ、野趣豊かな庭園となっています。
江戸の文人墨客をはじめ庶民に愛され、今日まで受け継がれてきた、貴重な財産がこの「向島百花園」と言えます。
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